いや、最近は忙しいねぇ。ブログを書く時間がないねぇ。でも、展覧会に行く時間はあるんだぜぇ♪というわけで、東京都庭園美術館で開催中の「舟越桂 夏の邸宅」展にいってきましたよ。
舟越桂さんは1951年生まれの木彫作家さん。内面性まで形にされてるみたいな人物を木から彫り出す。その目は大理石で出来ていて、どの人物造形にもない深淵な視線と、その人物のもつ雰囲気を具現化する事に成功してる。この展覧会では、1980年代から現在にかけてのそんな彼の木彫作品が、ドローイングや版画と合わせて紹介されている。別に年代別に紹介されているわけではないのだけれど、作品の移り変わりが非常に興味深く、引き込まれた。


1980年代は具象彫刻と言って差し支えないであろう人物を彫っている。リアルな人物像だ。彫り込みも丁寧で、表面も滑らかに仕上げられている。具象彫刻。上記したように、それらの持つ表情や佇まいにはその人物の持つ感情、歴史、経験、記憶、過去、未来、様々な要素が含蓄されているようで、観るものはそれに想いをはせる。木彫でできた人物とそれが内包する精神と自分とを、ゆっくり、ゆっくりと絡ませていく。


1990年代に入ると、その内面性は顕著に表面に突出する。色や造形、表情また骨格さえも抽象性を増し、そこには人物のもつ身体のリアリティはない。精神性は身体と馴染んでいる。いや、身体の中に留めていた内面が、溢れ出て身体とシンクロしているのかもしれない。とにかく目に見える形でなく、その奥深く、奥深くへの視点がずっと強くなり、それが形になっているかのよう。


そして最近の作品シリーズ。スフィンクス。すべてにおいて中立的な印象を受ける。男性でもなく、女性でもない。善でもなく、悪でもない。人間でもなく、それ以外でもない。何者かわからない。ただ、ひとつわかる事があるとすれば、それはスフィンクスが確実に何かを見つめている。そして何かを考えている。という事。俺はこのスフィンクスの作品が大好き。
やはり舟越は、ずっと「人間」を彫っているのだろう、と思う。人間の表面、そしてそれが語りうる人間の内面を表現した80年代。人間の内面を外面に可視的に表現した90年代。そして、今現在はそれら内面やら外面のすべての集合体、つまり「人間」そのものを見つめる目を、「人間」そのものを見つめる存在を掘り出しているのだろうと思う。正確に言えばスフィンクスは人間じゃない…スフィンクスは人間を見つめる存在だ。スフィンクスが持つ表情、視線、佇まい、それを感じ取れば感じ取る程、スフィンクスの視線の先が見えてくる。つまり、「人間」が見えてくる。人間から遠ざかったが、限りなく、人間に近づいている。スフィンクスは「人間」の彫刻なのだと思う。
そして特筆すべきは舟越特有の「作られている感」だ。スフィンクスを間近で観ると、生々しいまでの刀跡、打ち込まれたボルト、継ぎ足された木材、などが目に入り、それらはすべてスフィンクスが「作られたもの」である事を語る。そうなると観ている人はどうしていいかわからなくなる。こんなにも奥深くリアルな表情や有機的な存在感を持ったスフィンクスが「作られたもの」である事を同時に告げられると、どうしていいかわからなくなる。「人間」を客観的にみつめる「人間」でない何かは、作られたものである。そう。ここで「人間」を見つめているのは神のような何か超越的な存在でなく、舟越桂といういち「人間」によってつくられた木彫作品にすぎないのだ。これはもう何か、語りきれない様々なニュアンスを含蓄している。神がいないこの世の中で、人間の行いを客観的に見る人がいないこの世の中で、舟越はそんな目を作ったのかもしれない。作った。作った。そう。作ったのだ。人間を追求していった作家は、人間の表面を作り、内面を作り、それらすべてを見つめる目を作った。その目に見つめられる俺たちは何を思う?何を感じる?


こんな話がある。
フェキオン山のスフィンクスが、そこを通る人間に問いかけた。「朝は四本、昼は二本、夕方は三本足。この生き物は何か?」答えられなかった者はスフィンクスに食い殺されたそうだが、オイディプスが正解を答えるとスフィンクスは崖から身を投げた死んだ。
その正解とは、「人間」だ。
舟越桂さんの木彫作品が、そしてドローイングがこんなにたくさんまとまって観れる機会はそうありません。是非、足を運んで観てください。そして、「人間」が作った「人間」を見つめる目を、あなたの目で見つめてきてください。
「舟越桂:夏の邸宅ーアールデコ空間と彫刻、ドローイング、版画」展
会場: 東京都庭園美術館
スケジュール: 2008年07月19日 〜 2008年09月23日
8月25日-31日は午後8時まで開館、8月27日臨時開館
住所: 〒108-0071 東京都港区白金台5-21-9
電話: 03-3443-8500 ファックス: 03-3443-3228


舟越桂さんは1951年生まれの木彫作家さん。内面性まで形にされてるみたいな人物を木から彫り出す。その目は大理石で出来ていて、どの人物造形にもない深淵な視線と、その人物のもつ雰囲気を具現化する事に成功してる。この展覧会では、1980年代から現在にかけてのそんな彼の木彫作品が、ドローイングや版画と合わせて紹介されている。別に年代別に紹介されているわけではないのだけれど、作品の移り変わりが非常に興味深く、引き込まれた。

1980年代は具象彫刻と言って差し支えないであろう人物を彫っている。リアルな人物像だ。彫り込みも丁寧で、表面も滑らかに仕上げられている。具象彫刻。上記したように、それらの持つ表情や佇まいにはその人物の持つ感情、歴史、経験、記憶、過去、未来、様々な要素が含蓄されているようで、観るものはそれに想いをはせる。木彫でできた人物とそれが内包する精神と自分とを、ゆっくり、ゆっくりと絡ませていく。

1990年代に入ると、その内面性は顕著に表面に突出する。色や造形、表情また骨格さえも抽象性を増し、そこには人物のもつ身体のリアリティはない。精神性は身体と馴染んでいる。いや、身体の中に留めていた内面が、溢れ出て身体とシンクロしているのかもしれない。とにかく目に見える形でなく、その奥深く、奥深くへの視点がずっと強くなり、それが形になっているかのよう。

そして最近の作品シリーズ。スフィンクス。すべてにおいて中立的な印象を受ける。男性でもなく、女性でもない。善でもなく、悪でもない。人間でもなく、それ以外でもない。何者かわからない。ただ、ひとつわかる事があるとすれば、それはスフィンクスが確実に何かを見つめている。そして何かを考えている。という事。俺はこのスフィンクスの作品が大好き。
やはり舟越は、ずっと「人間」を彫っているのだろう、と思う。人間の表面、そしてそれが語りうる人間の内面を表現した80年代。人間の内面を外面に可視的に表現した90年代。そして、今現在はそれら内面やら外面のすべての集合体、つまり「人間」そのものを見つめる目を、「人間」そのものを見つめる存在を掘り出しているのだろうと思う。正確に言えばスフィンクスは人間じゃない…スフィンクスは人間を見つめる存在だ。スフィンクスが持つ表情、視線、佇まい、それを感じ取れば感じ取る程、スフィンクスの視線の先が見えてくる。つまり、「人間」が見えてくる。人間から遠ざかったが、限りなく、人間に近づいている。スフィンクスは「人間」の彫刻なのだと思う。
そして特筆すべきは舟越特有の「作られている感」だ。スフィンクスを間近で観ると、生々しいまでの刀跡、打ち込まれたボルト、継ぎ足された木材、などが目に入り、それらはすべてスフィンクスが「作られたもの」である事を語る。そうなると観ている人はどうしていいかわからなくなる。こんなにも奥深くリアルな表情や有機的な存在感を持ったスフィンクスが「作られたもの」である事を同時に告げられると、どうしていいかわからなくなる。「人間」を客観的にみつめる「人間」でない何かは、作られたものである。そう。ここで「人間」を見つめているのは神のような何か超越的な存在でなく、舟越桂といういち「人間」によってつくられた木彫作品にすぎないのだ。これはもう何か、語りきれない様々なニュアンスを含蓄している。神がいないこの世の中で、人間の行いを客観的に見る人がいないこの世の中で、舟越はそんな目を作ったのかもしれない。作った。作った。そう。作ったのだ。人間を追求していった作家は、人間の表面を作り、内面を作り、それらすべてを見つめる目を作った。その目に見つめられる俺たちは何を思う?何を感じる?
こんな話がある。
フェキオン山のスフィンクスが、そこを通る人間に問いかけた。「朝は四本、昼は二本、夕方は三本足。この生き物は何か?」答えられなかった者はスフィンクスに食い殺されたそうだが、オイディプスが正解を答えるとスフィンクスは崖から身を投げた死んだ。
その正解とは、「人間」だ。
舟越桂さんの木彫作品が、そしてドローイングがこんなにたくさんまとまって観れる機会はそうありません。是非、足を運んで観てください。そして、「人間」が作った「人間」を見つめる目を、あなたの目で見つめてきてください。
「舟越桂:夏の邸宅ーアールデコ空間と彫刻、ドローイング、版画」展
会場: 東京都庭園美術館
スケジュール: 2008年07月19日 〜 2008年09月23日
8月25日-31日は午後8時まで開館、8月27日臨時開館
住所: 〒108-0071 東京都港区白金台5-21-9
電話: 03-3443-8500 ファックス: 03-3443-3228