こんばんは。
レンズの語源がレンズ豆と聞いて驚いている杉山です。
いやぁ、もう2月も半ばですねぇ。
もう随分と昔の事のようですが
NY編、進めます。
さて、衝撃を受けた例の企画展について
お話させていただければと思います。
MoMAには6階建ての建物に展示室がいくつもあり
それぞれ展覧会がやっています。
僕が訪れた時も5こ?か…6こか…展覧会が開催されていました。
企画展的なものではガブリエル・オロスコ展
ティム・バートン展
そしてこの展覧会。

Compass in Hand
Selections from
The Judith Rothschild Foundation
Contemporary Drawings Collection
まぁ、ザッと展示はこんな感じ。



何に衝撃を受けたのかっていうと
この作家性の無さ、ですよ。
同じ壁にバーっと展示してありますけど
これほとんど全員違う作家です。
作家殺しですよね、これ。
いっこのインスタレーションかと思いましたよ。
ちょっと似たような雰囲気ある作品を陳列。
コンセプトあるっぽく見えるから
鑑賞者はそこに何らか意味を見出す。
「同じ作家だろう」とか思っちゃうんです。
でも違う。
僕もまんまとはまりました。
知っている作家なのに、その作家の作品に見えなかった。
展示が起こす作家性の打ち消し。
そんな展示に度肝を抜かれたわけですが
あ、そうか、そういう感じか。
っていうのがそのうちピンと来たんです。
例えば…例えばですよ?
このままネット社会が進行していって
企業のネットが星を被い電子や光が駆け巡っても、 国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来
が来たとしてですよ?
まぁ、そこまでじゃないとしてもボーダレス化が進んで行けば
アイデンティティの問題は騒がれるわけじゃないですか。
いや、もう現に顕著じゃないですか。
ボーダレス化していけばいくほど
個人を保とうという衝動がおきる。
陳腐な錆び付いた俺の脳みそだとそういう理解なんですよ。
でも、なんていうんでしょうか、
美術の文脈で考えていくと
どんどん作家性って薄れていってますよね?
シュミレーショニズムあたりから…
いや、レディメイドか…
もちろん一概には言えないですけど
「オリジナル」の神秘性ってやっぱ怪しいわけで。
最近じゃ技法と技法の間の壁も薄くなってきてるし
変に神聖化された作家像って薄れているというか
それが絶対って感じではなくなった。
展示されている作品一点一点を観てもですね
こう、主張が無いんですよ。
生成された感じがないんですよ。
垂れ流れてるんです。
もはや作品一点一点を見れないくらいつよい文脈を作ってるので
自分がちゃんと観れた自信もないんですが
なんて緩やかな自己なんだろうと、そう思ったんです。
(いやぁ、多分そう思わされただけなんだろうな…)

(一番右下の作品は草間。確か。そんな気させない展示。)
自己模倣、自己模倣の繰り返しで
なんとかなってる作家さんて多いですよね。
あなたが、誰だか、わかる。
私は、私が、誰だか、わかる。
そういうとこにしがみつく時代は終わるんじゃないかとか
なんかそういう事をまた強く思ってしまったわけです。
自分で自分を構築していく作業はつまらない。
かと言って自分の内を探ってそれ具現、ってのも終わった。
なんか違うんだよなぁ。
垂れ流れてるんだよなぁ。
この感覚は自分の中で大事に育てていきたい感覚で
最近は何となく言葉にできるようになってきた。
全然分かっていないし
たぶん少し勉強すれば
「あ、もう完全に形になってる概念じゃん」
とかいってガッカリするんだろうけど…。
もう少し色んなものを見て進めていきたいな。
NYに行って一番良かったのは
この展覧会を見れた事。
こんだけ攻めてるっていうか
作家の事とか考えないで
破天荒な展示ってなかなか見ない。
決して作家性が無けりゃいんだとかそういう事じゃない。
ただ、そこにしがみつきたくないというか…。
全く答えも出てないし、落ちてもいないんだけれど
今後の事とか考えるのに本当に示唆的だった。
俺も常に俺であることを辞めて生きていきたいな。
レンズの語源がレンズ豆と聞いて驚いている杉山です。
いやぁ、もう2月も半ばですねぇ。
もう随分と昔の事のようですが
NY編、進めます。
さて、衝撃を受けた例の企画展について
お話させていただければと思います。
MoMAには6階建ての建物に展示室がいくつもあり
それぞれ展覧会がやっています。
僕が訪れた時も5こ?か…6こか…展覧会が開催されていました。
企画展的なものではガブリエル・オロスコ展
ティム・バートン展
そしてこの展覧会。
Compass in Hand
Selections from
The Judith Rothschild Foundation
Contemporary Drawings Collection
まぁ、ザッと展示はこんな感じ。
何に衝撃を受けたのかっていうと
この作家性の無さ、ですよ。
同じ壁にバーっと展示してありますけど
これほとんど全員違う作家です。
作家殺しですよね、これ。
いっこのインスタレーションかと思いましたよ。
ちょっと似たような雰囲気ある作品を陳列。
コンセプトあるっぽく見えるから
鑑賞者はそこに何らか意味を見出す。
「同じ作家だろう」とか思っちゃうんです。
でも違う。
僕もまんまとはまりました。
知っている作家なのに、その作家の作品に見えなかった。
展示が起こす作家性の打ち消し。
そんな展示に度肝を抜かれたわけですが
あ、そうか、そういう感じか。
っていうのがそのうちピンと来たんです。
例えば…例えばですよ?
このままネット社会が進行していって
企業のネットが星を被い電子や光が駆け巡っても、 国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来
が来たとしてですよ?
まぁ、そこまでじゃないとしてもボーダレス化が進んで行けば
アイデンティティの問題は騒がれるわけじゃないですか。
いや、もう現に顕著じゃないですか。
ボーダレス化していけばいくほど
個人を保とうという衝動がおきる。
陳腐な錆び付いた俺の脳みそだとそういう理解なんですよ。
でも、なんていうんでしょうか、
美術の文脈で考えていくと
どんどん作家性って薄れていってますよね?
シュミレーショニズムあたりから…
いや、レディメイドか…
もちろん一概には言えないですけど
「オリジナル」の神秘性ってやっぱ怪しいわけで。
最近じゃ技法と技法の間の壁も薄くなってきてるし
変に神聖化された作家像って薄れているというか
それが絶対って感じではなくなった。
展示されている作品一点一点を観てもですね
こう、主張が無いんですよ。
生成された感じがないんですよ。
垂れ流れてるんです。
もはや作品一点一点を見れないくらいつよい文脈を作ってるので
自分がちゃんと観れた自信もないんですが
なんて緩やかな自己なんだろうと、そう思ったんです。
(いやぁ、多分そう思わされただけなんだろうな…)
(一番右下の作品は草間。確か。そんな気させない展示。)
自己模倣、自己模倣の繰り返しで
なんとかなってる作家さんて多いですよね。
あなたが、誰だか、わかる。
私は、私が、誰だか、わかる。
そういうとこにしがみつく時代は終わるんじゃないかとか
なんかそういう事をまた強く思ってしまったわけです。
自分で自分を構築していく作業はつまらない。
かと言って自分の内を探ってそれ具現、ってのも終わった。
なんか違うんだよなぁ。
垂れ流れてるんだよなぁ。
この感覚は自分の中で大事に育てていきたい感覚で
最近は何となく言葉にできるようになってきた。
全然分かっていないし
たぶん少し勉強すれば
「あ、もう完全に形になってる概念じゃん」
とかいってガッカリするんだろうけど…。
もう少し色んなものを見て進めていきたいな。
NYに行って一番良かったのは
この展覧会を見れた事。
こんだけ攻めてるっていうか
作家の事とか考えないで
破天荒な展示ってなかなか見ない。
決して作家性が無けりゃいんだとかそういう事じゃない。
ただ、そこにしがみつきたくないというか…。
全く答えも出てないし、落ちてもいないんだけれど
今後の事とか考えるのに本当に示唆的だった。
俺も常に俺であることを辞めて生きていきたいな。
